第1章 -生い立ちから難聴を知る日-

広島県の小さな漁師町で、ごく普通の家庭に生まれました。

兄が2人の男3人兄弟。
兄の後ろをついて外で遊ぶ活発な子供。
スポーツが盛んな家庭だったので小さい頃から野球や陸上をしたり、とにかくじっとできない落ち着きのない子供です。

小学校4年生くらいから兄につられ、陸上クラブとソフトボ―ルチームに入団。
6年生の時には助っ人で地元のサッカーチームの大会や学校対抗のバスケット大会に出たりと、とにかくスポーツが大好きでした。

特に陸上は兄2人がガチ勢だったので、
「僕も高校生までは陸上やる!」
ってずっと言ってたみたい。

 

 

中学では陸上部に入部しよう!と思っていたら廃部で無くなっていたので、野球部に入ろう!と意気込んでいましたが先輩の嫌がらせに遭い、面倒になって1ヶ月で退部。

でもスポーツがしたい!

それは変わらず、幼馴染が誘ってくれたバレーボール部に入部。
弱小チームだったので、2年生までは遊びみたいな感じの部活動でした。
どこのタイミングか覚えてないけれど、突然バレーが楽しいと思い始めた。
早くバレーがしたい!と1限目から部活の時間を待ってましたね(笑)

でも、バレーボールにのめり込んだタイミングで明らかにジャンプ力とか
技術が伸びたのは覚えていて、その当時夜は試合のビデオを3時間は必ず
見ていました。
自分のやっていることを好きになること。そうすれば上達するスピードも
何倍も速くなる
ことをこの時、身をもって体験しました。

 

そして、僕はこの中学時代に自分が「難聴」ということを知りました。

それは聴力検査がきっかけ。
音が聞こえたらボタンを押すという一般的な聴力検査です。

小学校から中学2年までは3人で同時検査という感じで、隣の人がボタンを押せば音が鳴っていると分かるので、その時僕もボタンを押す。

「聞こえてなかったら怒られる」

小学校の時にそう頭によぎったことがあり、「聞こえない=怒られる」と思って中学時代も聴力検査は受けていました。当然聴力は「正常」という判断をされ担当の先生も気づいていませんでした。

保育園の時から右耳を塞ぐと音が小さくなるんだ!ということは分かっていたのですが、「みんなこんな感じなんだな」って何も疑問に感じていませんでした。

中学3年の時、聴力検査が1人ずつ行うことになりました。
当然、周りに「ボタンを押す人」がいなくなったので左耳に音が流れているという目安が無くなりました。

ボタンが押せないので先生が疑問に思い、親に連絡。
そこで初めて、小さい頃からの「音が聞こえない」ことを親に話しました。

その後、近隣の耳鼻科に掛かりましたが
「原因も病名も分かりません。」
と言われ、大学病院を紹介されそこで1日かけて検査。

結果、小さいときに「神経性難聴」になった可能性が高いと診断されました。

「俺って難聴なんだ。ふーん。」
その時はあまりピンときてませんでした。

右耳は正常ですし、初対面の方も右耳で音が聞こえるので普通に会話が出来ます。
僕が難聴だと周りの人が気づくことが確実になかったので、余計に難聴ということを自覚するまで時間がかかりました。

ここから、「難聴」と共に生きる人生が始まりました。

 

 

そして高校時代
ほぼバレー漬け。
高校は県内の強豪チームに推薦を無理やりもらって進学しました。
1年生の新しいチームから卒業まで運よくレギュラーとして試合にも出させてもらって、親はよく大会にも来てくれていました。

難聴のことは部活のメンバー含めて誰も僕が難聴だと気づきません。
僕から自白することはないので、誰一人知らないままでした。

 

2年生の冬に体調不良から中耳炎になり、運悪く正常な右耳に発症。
そこから正常だった右耳に耳鳴りが起こり、今日に至るまで

365日、24時間耳鳴りが鳴り続ける。

難聴に加えて新たな聴覚の異変が加わりました。

このあたりから、難聴をそんなに重く受け止めていなかった僕ですが「音が聞こえなくなる可能性」を感じました。

 

 

高校卒業後は、ファッション系の専門学校へ進学。
ここに来るまで少しだけトラブルもありました。

最初、建築系の学校に進路が決まっていました。
もともとファッション系の学校を探していた中でふと建築に興味が出て、その流れで推薦で合格。

卒業するほんとに数週間前に諦めきれずに合格していた学校を辞退して、本来行きたかった学校を受験しました。

担任の先生にもかなり説教され、頭も下げて。
学校始まって以来の問題児とその時言われました(笑)

親にも入学金を払っているのにもかかわらず辞退するということを選択して、本当に申し訳なかったです。

 

 

専門学校時代は、最初ついていけなすぎて鬱になりかけました。
そして理不尽な理由でいじめられると1年生の時は最悪でした。

2年時も遊びまくりファッションショーとかもあったので服の制作をしながらも、でも何か本腰をいれて学業に取り組めていなかった。

あれだけ頭を下げてまで行かせてもらって、
「何をしているんだろう」
と自身の不甲斐なさにも嫌気がさしていました。

難聴も専門学校の2年間は何も変化なく、周りも僕が難聴ということを知らないままでした。

なんとか就職も決まり卒業時にあるファッションショーに向けて大詰めになった卒業1週間前に交通事故に遭いました。

ファッションショーも卒業式にも出れず、就職の話も無くなりました。

 

このあたりから、何をするにもマイナスな思考が強くなっていきました。

 

第2章へつづく